人形劇団ポポロ  

さねとう あきら先生と人形劇団ポポロ
(40周年記念誌より再掲)

さねとう先生とポポロは、一九九〇年初演の「鬼ひめ哀話」で出会い、 三十五周年記念公演(二〇〇七年)の「鬼ひめ哀話」では演出を、「鬼笛」では監修・補訂をお願いしました。 さらに、四十周年記念公演「耳なし芳一」では再び演出をお願いし、 その際の体を張った演出は出演者のみならず、演奏者、スタッフともに息をのむばかりでした。

さねとう先生の追悼公演にあたり、劇団の四十周年記念誌にお寄せいただいた原稿を、劇団代表山根の原稿とともに再掲します。

 

さねとう先生について

山根 宏章(劇団四十周年記念誌(2013年)より)

この方の近くに寄れるとは思ってもいなかった。児童文学だけでなく児童演劇の世界では遠い遠い存在と思っていたのです。

《おにひめさま》という物語を『ゆきこんこん物語』の本から見つけて人形劇にしようということになり、最終的に僕の脚色した台本でやることになってから、上演許可をいただきにご自宅にお邪魔した。だが、こちらが話すより早く先生の舌鋒はすさまじかった。自分の作品にかける思いの強さをこれほどにストレートに初対面のそして半人前の僕にぶつけてこられることに思いっきり感動した。

舞台は、邦楽の生演奏という必殺技のおかげで、おにひめ様の心のひだを存分に引き出して、初演にしては大成功だった。これには作曲の故大倉ただしさんの力が大きい。

力の足りなさを補って、少しづつ手を加えては再演を繰り返し、作品はこの上なく充実度を増していった。主演の鬼ひめ、新人の小林由美子はその中で大きく成長して、この人なくしてこの作品なしと思わせるほどになった。そして、この作品がポポロの人形劇をおとなの鑑賞に堪えうるものとしての評価を確実にしてくれた。

それからあと、朗読の台本から『鬼笛』を人形劇化して演出をお願いした。入退院を繰り返すほどに大変な状況の中で狭山から東村山まで通っては、苦労を顧みず劇づくりに打ち込んで頂いて、ハードな体調は限界ギリギリだったであろうにもかかわらず最後まで、観客の心を捕まえる作業にエネルギーを注いで頂いた。この舞台が契機になって邦楽の仲林光子師匠が、いま琵琶語りの仁恵舟と変貌してさらなる世界を広げていくことになる。

いろいろな可能性を引き出してくれる作家であり演出家、この人がこの二十年の間に僕たちの演劇観を根底から叩き直してくれたんだと僕は思っている。そして昨年、小泉八雲の『耳なし芳一』を演出してもらい、僕らの舞台は《厚生労働省社会保障審議会推薦児童福祉文化財指定》という長ったらしい賞をいただいた。(この名前も正確でないかもしれないのだが・・・)賞に縁のない僕たちにはこれで十分発奮材料になります。感謝!

それにしても、大阪から東京と57年間(2013年当時)ずいぶん遠回りをしてきた僕には、今の劇団員はうらやましくって仕方がない。若い時からこんないい作品に、そしてこんな素晴らしい演出家に恵まれていたら、もうちっとましな役者になっていただろうになんてね。

でもおかげでポポロの未来が楽しみです。

(劇団四十周年記念誌(2013年)より)

 

性懲りもなき野望

さねとう あきら(劇団四十周年記念誌(2013年)より)

ボクの創作民話『おにひめさま』は、ありったけの愛おしさを込めて「永遠の女人像」を描き出した、とりわけ思い入れの深い作品である。一九七二年、ボクの第一作品集『ゆきこんこん物語』に収めて発表したのだが、他の作品群はそれなりの評価を得て脚光を浴びたのに、決して道徳的とはいえぬ自由奔放な「姫」の生きざまに反感をもたれたのか、さしたる反響もなく冷ややかに捨て置かれた。

だから、それから十五年以上も経て、突然、人形劇団ポポロの山根さんから、『おにひめさま』の上演許可を求められたときは、「何で『おにひめ……』?」と、思わず問い直すほどの驚きだった。あまり長いこと陽の目をみなかったので、ほとんど絶望しかけていたのだ。ポポロの創立は、奇しくもこの作品を発表した一九七二年というから、劇団創立以来、『おにひめさま』を温め続けたことになる。その心意気に感じて、ボクは一も二もなく上演を許諾した。

一九九〇年に初演された『鬼ひめ哀話』は、仲林光子さんの地唄語りの名調子、等身大の山根さんが仮面をかぶって人形たちと共演する破天荒な演出で、従来の枠組にとらわれない人形劇の新次元を拓いた傑作だった。観客の心をえぐる反応の深さに、「この劇はきっと大評判になるぞ、売れまくるだろう」と作者も思い、山根さんもそんな確信をもったと後に語ってくれたが、両者の期待を完全に裏切って、ボクの原作同様、社会的反響は無に等しかった。

普通ならそのままうち捨てられたであろうが、それから更に十五年も経って、二〇〇七年、劇団創立三十五周年の記念公演として『鬼ひめ哀話』再演の話が持ち上がり、山根さんがこの作品にかけた執念に、原作者として胸が熱くなった。スタッフとして参加してほしいとの要請に応え、「演出補」として稽古場に乗り込んだ。初演の恨みを果たすというか、練りに練り上げて、今度こそ作品の値打ちを認めさせてやる。そんな思いが稽古場にみなぎって、白熱の猛稽古となった。

仲林さんの地唄語りも、山根さんが扮した等身大の仮面の鬼も、再演の舞台では妖気が漂うほどに円熟味を増し、〈現代の文楽〉と言っても過言でない見事な出来映えだった。ところが、劇場を充たした熱気をよそに、またしても社会的な評価はゼロに終わり、ボクや山根さんの野望は、一場の夢と化してしまった。

翌二〇〇八年、山根さんは懲りもせずにさねとう民話『鬼笛』の人形劇化を図って、ボクを驚かせた。もはや世評に拘泥することなく、『鬼ひめ哀話』の成果の定着、若手への継承を意図されたのだろう、仲林さんのかき鳴らす琵琶の音に導かれて、ポポロの次代を背負う若手が、『鬼笛』公演を通じて輩出したのだった。

思えば「鬼と女性」をテーマにした二作によって、ボクと山根さんとの付き合いは二十年以上にも及ぶが、その間、「鬼」のように執念深く、拙作を見放なそうとしなかった彼の信念の固さには、脱帽せざるを得ない。「性懲りもない彼の野望」に、再三、再四、付き合うこととなったが、破れてもなお落ち込むことなく、実に爽やかである。山根さんのお人柄だろうか。

(劇団四十周年記念誌(二〇一三)より)